ピカソとモネを見分けるハト、慶應イグノーベル賞研究
1995年、慶應義塾大学の渡辺茂教授はハトにピカソとモネの絵画を区別させる実験で正答率80%以上を達成し、イグノーベル心理学賞を受賞した。「鳥頭」という言葉があるが、その鳥頭たちが人間の芸術鑑賞能力を問いただすことになるとは、さすがに誰も想定していなかっただろう。
## ハトに絵を見せてエサを出す実験
実験の仕組みはシンプルだ。ハトを小さなボックスに入れ、スクリーンにモネかピカソの絵画を表示する。ハトが正しい画家に対応するキーをくちばしでつつけば、エサが出てくる。間違えれば何も出ない。
これを繰り返す。オペラント条件付けと呼ばれる古典的な学習手法だが、使用した絵画は本物の作品から厳選した複数枚。モネなら「睡蓮」シリーズ、ピカソならキュビズム期の作品など、美術教科書に必ず載るような代表作ばかりだ。
## 正答率80%超——それで終わりじゃなかった
訓練を続けたハトたちは、80%以上の正答率でモネとピカソを見分けた。ここまでなら「まあ、エサのためなら鳩だってがんばるよ」という話で終わる。
だがここからが本題だ。
渡辺教授は次に、訓練で一度も使っていない**初見の絵画**を提示した。特定の絵を記憶しているだけなら、見知らぬ作品では失敗するはずだ。ところがハトたちは初見の作品でも高い正答率を維持した。
つまりハトは「モネらしい色彩と筆致」「ピカソらしい形の崩し方」という、美術の授業で人間が何時間もかけて学ぶような抽象概念を、エサ目当てで自力で体得していた。笑いながら「すごい」と認めなければならない瞬間である。
## 逆さまにしたら何が起きたか
渡辺教授のチームはさらに踏み込んだ実験を行った。絵画を逆さまにして提示したのだ。
モネの絵を逆さまにしても、ハトの正答率はほとんど落ちなかった。モネの特徴が「色彩」と「光の表現」にあるため、向きが変わっても識別できたと考えられる。一方、ピカソの絵を逆さまにすると正答率が低下した。キュビズムは「形の崩し方と配置」に特徴があり、向きが変わると手がかりが失われるためだ。
この結果は、ハトがピカソとモネの「何を見て」識別しているかまで明らかにしてしまった。鳩が美術評論家さながらの分析を、無自覚かつエサ目当てでやり遂げていたのである。
## イグノーベル賞——笑いと驚きの境界
イグノーベル賞は1991年からハーバード大学で毎年授与されている賞で、選考基準は「最初に笑わせ、次に考えさせる研究」だ。医学賞・物理学賞・平和賞など、本家ノーベル賞と同名の部門が揃っており、受賞者には1兆ジンバブエドル紙幣(実質的な価値はほぼゼロ)と、出席者が紙飛行機を一斉に飛ばす祝砲が贈られる。
笑いを主体にした賞に見えるが、選考委員の多くは本物のノーベル賞受賞者や著名な科学者だ。明らかにでたらめな研究は選ばれず、科学的に意味があるのに「まず笑える」という点が評価される。
日本人研究者はイグノーベル賞の常連で、渡辺教授以降も毎年のように日本人が名を連ねている。バナナの皮の滑り摩擦係数を計測した研究、タマゴ型の便器を開発した研究など、「なぜそれを……」と思いつつ確かに面白い発見が続く。このカテゴリにおける日本のプレゼンスは、もはやお家芸と呼んでいい。
## ハトが問いかけた哲学
渡辺教授の実験が本当に怖いのは、ここからだ。
ハトがモネとピカソを見分けられるということは、芸術鑑賞の一部が純粋な視覚パターン処理であることを示している。我々が美術館でモネの絵を見て「印象派の光だ」と感じるとき、脳内で行われていることの一部は、ハトがエサを求めてキーをつつく行為と本質的に同じプロセスかもしれない。
「感動」を否定する話ではない。ただ、人間が「崇高な芸術鑑賞」と呼ぶものの土台に、もっと原始的な認知メカニズムが潜んでいる可能性を、一羽のハトが静かに突きつけている。渡辺教授自身は「芸術作品は動物の認知研究において優れた刺激素材だ」と語っている。芸術を「道具」として使う発想に、芸術家が複雑な思いを抱くとしても、それ自体また人間らしい反応だ。
## AIと鳩の間で、人間はどこにいるか
この実験から30年近くが経った今、AIが絵画を生成し、人間の書いた文章と機械の出力の区別がつきにくくなった時代において、この問いはより鋭さを増している。
「人間にしかできない芸術鑑賞」とは何か。ハトに先を越された部分があるなら、AIにはどこまで越えられるのか。そして「感動」はどこから生まれるのか。
1995年、慶應の一研究室でハトがくちばしでつついたキーは、思いがけず哲学の扉も開けてしまったらしい。賞の名前はイグノーベルだが、問いはいたって本物だ。
この記事は信頼性の高い情報源に基づき作成し、編集部が内容を確認・監修しています。お気づきの点はお問い合わせよりお知らせください。
よくある質問
- ハトは本当にピカソとモネの絵を見分けられるのですか?
- はい。1995年にケイコ・ワタナベらが発表した研究で、訓練を受けたハトが印象派(モネ)と抽象表現主義(ピカソ)の絵画を区別できることが示されました。初めて見る作品でも正しく分類できたため、画風そのものを学習したと考えられています。
- この実験ではどのように絵画を見分けさせましたか?
- 各画家の絵画20点を訓練用に使い、正解時に餌を与える強化学習で条件づけしました。訓練後、未知の絵画でテストを行ったところ、ハトは平均80%以上の正確さで分類に成功しました。
出典
- Ig Nobel Prize: ハトの芸術鑑定能力